勘違いはされろ?
「勘違いされたくない」「理解されたい」「説明しつくしたい(欲)」
これらがぼくの、言語化のエネルギーだったのかもしれない。と仮定してみる。
たしかにそうだ。そんな気がする。
しかし、1から10まで話したところで、これらは成功してない。
むしろ、理屈っぽくてウザいと思われてしまい、逆効果のように思う。
話す相手に対して、「わかってもらえてない部分」があったほうがいいのかな?
それは勘違いや受け取りの違いに繋がるけれども、それはその瞬間の話。
はじめは我慢だ!そこを耐えるんだ!
相手に「わかってもらえてない部分」は、のちほどの質問タイムにつながる。
マシンガントークは一方的で質問タイムの余裕が生まれない。それは言うまでもなく。
ぽつり、ぽつり、と落ち着いてことばを紡いで、相手に考えてもらえるような時間と、
疑問に感じてもらえるような「間」が必要な気がします。
相互理解には時間がかかる。という、ごく当たり前のはなしを思い出す。
相手との質問タイムや余裕、関係の構築、長い目でみると、まずは、
「勘違いはされろ」ということか。
「芸術は爆発だ」の岡本太郎さんの著作で、”勘違いは美しい”とかなんとか書いてあったような気がします。大学の頃にうっすら読んだ記憶が…
まあ、いろいろと自分に課題を感じますね。