課題は山積み、囲まれてるわよ
進化の過程
1、クライエントと接しても、感じた、思ったフリ。不感症ぎみ。
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2、とりあえず、とりつくろう。綺麗事を言う。
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3、なんとなく、感じれたけど、言葉にできない。
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4、めちゃくちゃだけど、とりあえず、言葉にする。
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5、一連の自己課題があるために、「自分のため」の仕事になってしまっている。
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6、やっぱりクライエントのことが、ひとごと感。否めない。
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7、支援の成功体験やクライエントとの関わりのなかで色々気づかせてもらう。
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8、やっと、「ひとのために何かする」ということに目覚める。
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9、ぼく的、対人援助の夜明けがくる。
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11、ソーシャルワークの本当の面白さに気づく。
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12、ソーシャルワークおたくになる。
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13、しゃべりすぎて、まわりの職員にうざがられる。←今ここ。
落ち着いてー。結局、職場の人間関係が一番難しいし、離職の原因よ。
勘違いはされろ?
「勘違いされたくない」「理解されたい」「説明しつくしたい(欲)」
これらがぼくの、言語化のエネルギーだったのかもしれない。と仮定してみる。
たしかにそうだ。そんな気がする。
しかし、1から10まで話したところで、これらは成功してない。
むしろ、理屈っぽくてウザいと思われてしまい、逆効果のように思う。
話す相手に対して、「わかってもらえてない部分」があったほうがいいのかな?
それは勘違いや受け取りの違いに繋がるけれども、それはその瞬間の話。
はじめは我慢だ!そこを耐えるんだ!
相手に「わかってもらえてない部分」は、のちほどの質問タイムにつながる。
マシンガントークは一方的で質問タイムの余裕が生まれない。それは言うまでもなく。
ぽつり、ぽつり、と落ち着いてことばを紡いで、相手に考えてもらえるような時間と、
疑問に感じてもらえるような「間」が必要な気がします。
相互理解には時間がかかる。という、ごく当たり前のはなしを思い出す。
相手との質問タイムや余裕、関係の構築、長い目でみると、まずは、
「勘違いはされろ」ということか。
「芸術は爆発だ」の岡本太郎さんの著作で、”勘違いは美しい”とかなんとか書いてあったような気がします。大学の頃にうっすら読んだ記憶が…
まあ、いろいろと自分に課題を感じますね。
「ことば」の質と量
対人援助の仕事で、最初にブチあたった壁は、「ことば」。
ぼくはどうにも言語化ができなかった。正確に言うと、苦手。
偉大な先輩たちに、「どう感じた?」「どう関わる?」と毎日のように問われ、赤面しながら、しどろもどろに口を動かしていた記憶が思いだされます。
毎年、正月に決意する抱負は「言語化」。今年もそう。
でも時を経るごとに、ことばの数は増えていき、いつの間にかペラペラと話すように。
しかし、今一度、立ち止まりたいと思う。
言語化の快感に酔いしれて、1から10までマシンガントーク。(職員に対して)
最近、気づいたことがある。・・・もしかしたらウザいかも?
そう感じていたところ、たまたま、公認心理師のテキストに村瀬嘉代子さんの著作の引用があって読んでみると、なんだか目からウロコ。
その時、なにかが降りてきた。「全部しゃべる必要ないんじゃない?」
そんな声が聞こえてきた。
今までは、とにかく勘違いされないように、理解してもらいつくさないと…
そんな気持ちで言語化していたけども、うーん。そんなにマジにならなくてもいいか。
と、そう思い、そして、1か5くらいの「ことば」を”大人しく丁寧に紡ぐ”ように。
今日からこれを意識してみよう。
利益と最善の利益
「利益」と「最善の利益」の違い。
利益 ・・・場当たり的かつ、短期的な満足。
最善の利益・・・永続的かつ、最適な幸福。
仕事のなかで、持つ視座とすれば、後者かなと。ぼく的には。
クライエントに”利益”を与えるのではなく、
クライエントが”最善の利益”を追求し、得られる。
ということが、大切な気がしています。